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明け方に山月記を読み返す🌖⛰🐅

1 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:04:54.79 ID:JtAX5MWa0.net
🐯・・・

2 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:05:20 ID:JtAX5MWa0.net
山月記 中島敦

3 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:05:39 ID:Q0/xt+cd0.net
あやべえ寝なきゃ

4 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:05:45.16 ID:JtAX5MWa0.net
 隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。

しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。

5 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:06:06 ID:JtAX5MWa0.net
數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。

一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈々抑へ難くなつた。

6 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:06:13 ID:kEnQ0pAM0.net
ちびくろサンボも読み返そうぜ

7 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:06:23.34 ID:JtAX5MWa0.net
一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。

或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。

彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。

8 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:07:02 ID:JtAX5MWa0.net
 翌年、監察御史、陳郡の袁傪といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿つた。

次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。

殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。

9 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:08:04.87 ID:JtAX5MWa0.net
>>6
絵本はテキストとして貼れんやろ

10 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:08:14 ID:7ywTV0RNa.net
>>1でスレ立てられるかどうか確認してるの草

11 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:08:29 ID:JtAX5MWa0.net
虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。

叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

12 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:09:04 ID:JtAX5MWa0.net
 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。

李徴の聲が答へて言ふ。自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめゝゝと故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。

しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧[きたん]の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。

 後で考へれば不思議だつたが、其の時、袁傪は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。

13 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:09:17.89 ID:JtAX5MWa0.net
都の噂、舊友の消息、袁傪が現在の地位、それに對する李徴の祝辭。青年時代に親しかつた者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至つたかを訊ねた。草中の聲は次のやうに語つた。

14 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:09:25.69 ID:GINstCaQ0.net
このスレいつも立ってんな
ワイは好きやで

15 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:09:55.00 ID:JtAX5MWa0.net
 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊つた夜のこと、一睡してから、ふと眼を覺ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでゐる。

聲に應じて外へ出て見ると、聲は闇の中から頻りに自分を招く。

覺えず、自分は聲を追うて走り出した。

無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走つてゐた。何か身體中に力が充ち滿ちたやうな感じで、輕々と岩石を跳び越えて行つた。

氣が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じてゐるらしい。

16 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:10:17.36 ID:JtAX5MWa0.net
少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。自分は初め眼を信じなかつた。

次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。

さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

17 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:10:35.40 ID:JtAX5MWa0.net
しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

自分は直ぐに死を想うた。しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

再び自分の中の人間が目を覺ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばつてゐた。之が虎としての最初の經驗であつた。

18 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:11:10.17 ID:JtAX5MWa0.net
>>14
ありがとう
時々でいいから山月記を読んでくれ

19 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:11:46.62 ID:JtAX5MWa0.net
 それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。
さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。之は恐しいことだ。

20 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:12:33.86 ID:JtAX5MWa0.net
今少し經てば、己れの中の人間の心は、獸としての習慣の中にすつかり埋れて消えて了ふだらう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋沒するやうに。

さうすれば、しまひに己れは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂ひ廻り、今日の樣に途で君と出會つても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだらう。

一體、獸でも人間でも、もとは何か他のものだつたんだらう。初めはそれを憶えてゐたが、次第に忘れて了ひ、初めから今の形のものだつたと思ひ込んでゐるのではないか? 

21 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:12:50.77 ID:JtAX5MWa0.net
いや、そんな事はどうでもいい。己れの中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己れはしあはせになれるだらう。
だのに、己れの中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己れが人間だつた記憶のなくなることを。

この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない。己れと同じ身の上に成つた者でなければ。所で、さうだ。己れがすつかり人間でなくなつて了ふ前に、一つ頼んで置き度いことがある。

22 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:13:11.04 ID:Vnkg1KWL0.net
李陵でやれ

23 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:13:14.61 ID:JtAX5MWa0.net
 袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の聲の語る不思議に聞入つてゐた。聲は續けて言ふ。

 他でもない。自分は元來詩人として名を成す積りでゐた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至つた。曾て作る所の詩數百篇、固より、まだ世に行はれてをらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなつてゐよう。

所で、その中、今も尚記誦せるものが數十ある。之を我が爲に傳録して戴き度いのだ。
何も、之に仍つて一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執著した所のものを、一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ。

 袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の聲に隨つて書きとらせた。李徴の聲は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一讀して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。

24 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:13:36.14 ID:c6zmkRmp0.net
文字禍スレにしろ😡

25 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:14:10 ID:JtAX5MWa0.net
>>22
そりゃワイだって李陵のが好きやけど

26 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:14:25.32 ID:6rbkQd/i0.net
前職の同僚に偶然再会したら、李徴はこんな気分だったのかなと思ったね

27 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:14:33.14 ID:JtAX5MWa0.net
 舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。

 羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己れは、己れの詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる樣を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。嗤つて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。

(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)

さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。

 袁傪は又下吏に命じて之を書きとらせた。その詩に言ふ。

偶因狂疾成殊類  災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵  當時聲跡共相高
我爲異物蓬茅下  君已乘軺氣勢豪
此夕溪山對明月  不成長嘯但成嘷

28 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:15:05.44 ID:JtAX5MWa0.net
 時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。
人間であつた時、己れは努めて人との交を避けた。人々は己れを倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。

勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。

29 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:15:33.68 ID:JtAX5MWa0.net
己れは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己れは俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。

己れは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによつて益々己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。

人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己れの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。

30 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:15:59.12 ID:JtAX5MWa0.net
今思へば、全く、己れは、己れの有つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。
人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己れの凡てだつたのだ。

己れよりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己れは漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己れは今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。

31 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:16:31.66 ID:JtAX5MWa0.net
>>24
ええけど

>>26
袁傪やなくて李徴なんか

32 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:17:04.15 ID:JtAX5MWa0.net
己れには最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己れが頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。

まして、己れの頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己れの空費された過去は? 己れは堪らなくなる。

さういふ時、己れは、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。

己れは昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。
しかし、獸どもは己れの聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己れの氣持を分つて呉れる者はない。

恰度、人間だつた頃、己れの傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己れの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

33 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:17:29.65 ID:JtAX5MWa0.net
 漸く四邊[あたり]の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。

 最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。

彼等は未だ虢略にゐる。固より、己れの運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己れは既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩倖、之に過ぎたるは莫い。

34 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:17:46.86 ID:JtAX5MWa0.net
 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁傪も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。

 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。

 さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。

又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。

35 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:17:57.66 ID:JtAX5MWa0.net
 袁傪は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。

36 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:18:10 ID:JtAX5MWa0.net
 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。

虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

37 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:18:19 ID:JtAX5MWa0.net
(昭和17年2月發表)

38 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:18:52.00 ID:JtAX5MWa0.net
文字禍 中島敦

39 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:18:52.51 ID:9KvxRgM00.net
臆病な自尊心と尊大な羞恥心

40 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:20:18.11 ID:JtAX5MWa0.net
 文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。

 アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒まくナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等など、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。

 その頃ころ――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷に妙な噂があった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという。

41 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:21:48 ID:JtAX5MWa0.net
王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛がバビロンの落城でようやく鎮まったばかりのこととて、何かまた、不逞の徒の陰謀ではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。どうしても何かの精霊どもの話し声に違いない。

最近に王の前で処刑されたバビロンからの俘囚共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にも判る。

千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜ぬいて殺され、その舌を集めたところ、小さな築山が出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。

星占や羊肝卜で空しく探索した後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。

ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目判らない。アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。

42 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:23:35.71 ID:6rbkQd/i0.net
あと、虎になって一日の大部分で人間の理性を失うっていうのは、
アル中かヤク中のことを暗喩してると思うね

43 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:24:31.11 ID:4OwQ6sCl0.net
もっと簡単な文で見ることとかできるん?
ワイには難しい

44 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:25:05.38 ID:J2KqgvcLd.net
高校の教科書ってホント名作揃いだよな
理系でラノベしか読んでなかったワイも舞姫の事後描写がエッチエチで森鴎外ってすげぇんやなって感心したわ

45 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:25:22.01 ID:JtAX5MWa0.net
 その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没し、更さらに二千三百年にして偶然発掘される運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。

両河地方[メソポタミヤ]では埃及[エジプト]と違って紙草[パピルス]を産しない。人々は、粘土の板に硬筆をもって複雑な楔形の符号を彫りつけておった。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。

老博士の卓子テーブル(その脚には、本物の獅子の足が、爪さえそのままに使われている)の上には、毎日、累々たる瓦の山がうずたかく積まれた。それら重量ある古知識の中から、彼は、文字の霊についての説を見出だそうとしたが、無駄であった。
文字はボルシッパなるナブウの神の司りたもう所とより外には何事も記されていないのである。

46 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:26:32 ID:JtAX5MWa0.net
>>43
山月記なら教科書のが多少読みやすい
教科書じゃなくとも文庫なら語注が多いからマシや
角川つばさ文庫版とかもあるけどそこまでいくと文章だいぶ違う

47 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:27:12.44 ID:xzgNBh400.net
こんな時間に読み耽ってしまった

48 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:28:08.40 ID:JtAX5MWa0.net
文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。

博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨めっこをして過した。卜者は羊の肝臓を凝視することによって凡ての事象を直感する。彼もこれに倣って凝視と静観によって真実を見出そうとしたのである。

その中[うち]に、おかしな事が起った。

一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。

老儒ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚いた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。彼は眼から鱗[こけら]の落ちた思がした。

49 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:28:51 ID:4OwQ6sCl0.net
>>46 現代語訳とかされてへんかな?
正直語注があっても読める自信がない……

50 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:28:55 ID:JtAX5MWa0.net
単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有もたせるものは、何か?

ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。
魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹などが、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。

この発見を手初めに、今まで知られなかった文字の性質が次第に少しずつ判って来た。

文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。

ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変った所はないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用[はたらき]を明らかにしようというのである。

51 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:29:33.04 ID:JtAX5MWa0.net
さて、こうして、おかしな統計が出来上った。

それによれば、文字を覚えてから急に虱を捕るのが下手になった者、眼に埃がはいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に被い。

「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰ヒアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻を穿チテ、中ノ実ヲ巧ニ喰ヒツクスガ如シ」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌した。

文字を覚えて以来、咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者なども、かなりの数に上る。

「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」と、老博士はまた誌した。

52 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:29:57 ID:6rbkQd/i0.net
早熟の才能が何かしらあって、それが花開くことなく燻っているすべての人に刺さるね

53 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:31:38.93 ID:JtAX5MWa0.net
>>49
漢文みたいで難しく見えるのって>>4>>5だけでそっから先はそうでもないで

古文とは違うから語注さえあれば読めると思うけどなあ
高校の頃は読めたんか?

54 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:32:29.07 ID:JtAX5MWa0.net
文字を覚えてから、俄に頭髪の薄くなった者もいる。脚の弱くなった者、手足の顫えるようになった者、顎がはずれやすくなった者もいる。

しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ麻痺セシムルニ至ツテ、スナハチ極マル。」

文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。

文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳を越した老人であるから、これは文字の所為ではないかも知れぬ。

55 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:33:08 ID:JtAX5MWa0.net
ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。埃及[エジプト]人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。

獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という文字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。

文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被[ヴェイル]をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。

近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめて置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。
着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

56 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:34:24.33 ID:JtAX5MWa0.net
ナブ・アヘ・エリバは、或る書物狂の老人を知っている。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。

彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草や羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。

彼はツクルチ・ニニブ1世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。

彼は、少女サビツがギリガメシュを慰めた言葉をも諳んじている。しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。

彼は、アダッド・ニラリ王の后、サンムラマットがどんな衣裳を好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。何と彼は文字と書物とを愛したであろう!

57 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:34:59.04 ID:JtAX5MWa0.net
読み、諳んじ、愛撫するだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギリガメシュ伝説の最古の粘土板を嚙砕くだき、水に溶かして飲んでしまったことがある。

文字の精は彼の眼を容赦なく喰い荒し、彼は、ひどい近眼である。

余り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲形の鼻の先は、粘土板と擦れ合って固い胼胝[たこ]が出来ている。

文字の精は、また、彼の背骨をも蝕み、彼は、臍に顎のくっつきそうな傴僂[せむし]である。しかし、彼は、恐らく自分が傴僂であることを知らないであろう。

傴僂という字なら、彼は、五つの異ことなった国の字で書くことが出来るのだが、ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者の第一に数えた。

ただ、こうした外観の惨めさにもかかわらず、この老人は、実に―全く羨ましいほど―いつも幸福そうに見える。これが不審といえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬の如き奸猾な魔力の所為せいと見做した。

58 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:35:34 ID:JtAX5MWa0.net
 たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹られた。侍医のアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王のご衣裳を借り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に扮した。これによって、死神エレシュキガルの眼を欺き、病を大王から己の身に転じようというのである。

この古来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信の眼を向ける者がある。これは明らかに不合理だ、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子供瞞しの計に欺かれるはずがあるか、と、彼等らは言う。

59 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:35:42 ID:4OwQ6sCl0.net
>>53 今大学生やが高校の頃はあんま読めてなかったな
先生の解説聞いてはえーってなってたくらいや
がんばって読んでみるで
サンガツ

60 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:35:47 ID:JtAX5MWa0.net
碩学ナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて厭な顔をした。青年等のごとく、何事にも辻褄を合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。全身垢まみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾っているような、そういうおかしな所が。

彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。

老博士は浅薄な合理主義を一種の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。

61 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:36:04.28 ID:JtAX5MWa0.net
 ある日若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや? と。老博士が呆れた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。

先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期について色々な説がある。自ら火に投じたことだけは確かだが、最後の一月ほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩の生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎してシャマシュ神に祈り続けたというものもある。

第一の妃ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾を薪の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。何しろ文字通り煙になったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。

近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じたもうであろう。これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。

62 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:36:27 ID:JtAX5MWa0.net
 賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄ことがらをいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?

 獅子狩と、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。

歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。この二つは同じことではないか。

 書洩らしは? と歴史家が聞く。

 書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。

 若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行の一枚である。話しながら博士の吐棄てた柘榴の種子がその表面に汚きたならしくくっついている。

63 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:37:08.62 ID:JtAX5MWa0.net
>>59
今ワイが貼っとるのはなんとなく粗筋だけでもわかるか?

64 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:37:35.73 ID:JtAX5MWa0.net
 ボルシッパなる明智の神ナブウの召使いたもう文字の精霊共の恐しい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。

文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。

太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。

大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒が降るのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が禍を蒙るのも、皆、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。

古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。

この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕[しもべ]じゃ。

しかし、また、彼等精霊の齎す害も随分ひどい。わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気に中ったためであろう。

65 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:38:01.96 ID:JtAX5MWa0.net
 若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為な青年をも害おうとしていることを悲しんだ。文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑を抱くことは、決して矛盾ではない。

先日博士は生来の健啖に任せて羊の炙肉をほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。

 青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮れっ毛の頭を抑おさえて考え込こんだ。

今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力を讃美しはせなんだか? いまいましいことだ、と彼は舌打をした。わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。

66 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:38:39.77 ID:JtAX5MWa0.net
 実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎[もたら]していたのである。

それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮した時以来のことである。

その時、今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。

67 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:38:42.07 ID:TrV1cI8G0.net
土日もやってるの?

68 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:39:08.78 ID:JtAX5MWa0.net
彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。

人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。

眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。

ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。

69 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:39:20.68 ID:L30r96Y50.net
俺は名人伝の方が好き

70 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:39:26.25 ID:JtAX5MWa0.net
彼は怖くなって、早々に研究報告を纏め上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献じた。但し、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。

武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。しかも、これに気付いている者はほとんど無い。今にして文字への盲目的崇拝を改めずんば、後に臍を噬むとも及ばぬであろう云々。

71 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:42:09.51 ID:JtAX5MWa0.net
 文字の霊が、この讒謗者をただで置く訳が無い。ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌を損じた。ナブウ神の熱烈な讃仰者で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。老博士は即日謹慎を命ぜられた。

大王の幼時からの師傅[しふ]たるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥[はぎ]に処せられたであろう。思わぬご不興に愕然とした博士は、直ちに、これが奸譎[けつ]な文字の霊の復讐ふくしゅうであることを悟った。

 しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲おそった大地震の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。

夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した。

72 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:42:39.30 ID:JtAX5MWa0.net
(昭和17年2月発表)

73 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:43:46.30 ID:JtAX5MWa0.net
>>67
休日なら翌朝の心配いらんから立ててることも多い

74 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:44:32.97 ID:c6zmkRmp0.net
ありがとう🤗

75 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:46:49.40 ID:JtAX5MWa0.net
>>74
文字禍ええよな
真面目なところと冗談めかしたとこの比率が中島敦っぽくてすこ

76 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:50:58.92 ID:c6zmkRmp0.net
>>75
山月記も名作だけど文字禍はユーモアがあってもっと中島敦をすこになるんだ🤗

77 :風吹けば名無し:2019/12/17(火) 05:51:13.69 ID:JtAX5MWa0.net
旧字体を新字体に変えればこうなる
これで7割読めれば原文で余裕やがんばれ

しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。

今少し経てば、己れの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。

そうすれば、しまいに己れは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだろう。

一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。

己れの中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己れはしあわせになれるだろう。だのに、己れの中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。

ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 己れが人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己れと同じ身の上に成った者でなければ。

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