貴志祐介って作家の書く文章がすげえ好きなんだが

風吹けば名無し

「行け。ここから、逃げるんだ！」
亜唯子は、穴から外に出る。そこは屋外で、足下は生芝だった。目の前には山が迫っており、たくさんの木々が茂っている。時刻は夕方で、景色は薄いブルーに包まれつつあり、空気がひんやりしていた。
亜唯子は、走り出そうとしたが、足が付いてこずに前のめりに転倒してしまう。だが、地面に激突する寸前に、身体を宙で止めた。
「運動不足だな。それに、念動力も、すっかり錆び付いているようだ」　父の声が、肩越しに優しく響いた。
「でも、まだ念動力の方が役に立ちそうだ。飛べるか？」
「はい」
亜唯子は、両手を翼のように拡げ、宙に浮き上がった。脳裏には、あのワタリガラスをイメージしていた。
そのときになって、ようやく、建物の方から慌ただしい騒ぎが聞こえてきた。
のんびりしていると、捕まってしまう。
亜唯子は、頼りない両脚で大地を蹴ると、一気に百メートル以上飛び上がった。
さらに、ぐんぐん高度を上げると、すでに地平線に没していた夕日が見えてきた。
「どちらへ行けばいいの？」
「どうしたいんだ？」
「『悪鬼』を斃す」
「だったら、東だ」
亜唯子は、夕日を背負って飛び続ける。周囲はすぐに夜の帳に閉ざされ、頭上には満天の星が燦いた。

こんな爽快感を味わうのは、久しぶりだった。
わたしは今、生きている。
自分の意志で戦いの場に向かっているのだ。
薄く冷たい空気に、肺が悲鳴を上げかける。風で涙があふれたが、まったく気にならなかった。
それから、なぜこんなに気分がいいのか気がついた。どんなに抑えようとしても止めどなく続いていた念動力の漏出が、ぴたっと止まっているのだ。
やはり、止めようとするのが間違いだった。方向を定めて逃がしてやればいいのだ。
もちろん、四六時中、念動力を使い続けることはできない。しかし、少なくとも短時間であれば、周囲の世界に破滅的な影響を与えずに済むかも知れない。
だったら、たぶん、だいじょうぶだ。
亜唯子は、自分に言い聞かせる。

わたしは、『悪鬼』を斃すことができる。
だが、さっきまでうるさいくらいに話しかけてきた父の霊は、なぜか沈黙していた。

こんなにも文章が簡潔ですっきりしてるのに情景が鮮明に浮かぶのが読んでて気持ちがいい