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徳川15代将軍の中に1人無能がおるよな

177 :風吹けば名無し:2018/01/28(日) 04:50:16.49 ID:qZzQ/onc0.net
>>108
慶長の役の惨めな明軍2w

・順天城の戦い
>日本軍は防戦してこれを退け、明の遊撃李金が負傷し、 戦死した明兵も数知れずとある。
>城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃は激しく多くの死傷者を出した。
>劉?自身は富有まで撤退した。これにともない水軍も10月9日、海上封鎖を解いて古今島(莞島郡古今面)に撤退した。
>明軍の退路上には投棄された兵糧が散らばっており、この幾らかは日本軍が戦利品として入手した。
>こうして明、朝鮮の西路軍、水軍による順天城攻略作戦は失敗に終わった。
(明軍損害大 日本側軽微)

・泗川の戦い
>朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い
>混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、
>混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、
>戦闘は幕を閉じた。
(明の記録では明側「戦死者約8万人」とある。)

・第二次蔚山城の戦い
>加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、
>明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。
>麻貴は挑発などを行い日本軍を誘きだそうとしたが、城中の清正は守りを固めて出て来ない
>さらに中路軍が泗川の戦いで大敗したとの報告も届いたため、10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。
(明軍損害大 日本側軽微)

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